【新1万円】あの有名大学も!?実業家渋沢栄一が築いた現代の教育機関とは?

 

こんにちは、ロジャーです

今回は読者さんのお話をシェアします。

歴史好き!!という方には必見のお話です。

では、ここからは読者さんのお話です。

 

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渋沢栄一という人物を知っていますか?

渋沢栄一は、新一万円札の肖像画に
選ばれるほどの素晴らしい功績を残しました。

その功績の中に、学校教育が含まれています。

 

あの有名な大学が、もしかしたら
渋沢栄一の貢献により創立されたかもしれません。

渋沢栄一がどの大学の創立に関わったのかについて
歴史大好き!そして、渋沢栄一について
調べまくった渋沢栄一オタクの私がご紹介します!

そもそも渋沢栄一って誰?

【引用:「現代語訳 論語と算盤」P9 著者:渋沢栄一 訳:守谷淳】

渋沢栄一は、江戸時代に現在の
埼玉県深谷市で生まれました。

攘夷志士から幕臣となり、
明治時代になるとさまざまな経済発展に貢献します。

詳しくはこちらの記事をご参照ください↓

え!?あの会社も!?渋沢栄一が携わった会社まとめ!!敏腕経営者の腕を見よ!【新紙幣1万円の人】

渋沢栄一が携わった大学って?

渋沢栄一が携わった大学は

・商法講習所(現一橋大学)
・大倉商業学校(現東京経済大学)
・二松學舎(現二松學舎大学)
・日本女子大学校(現日本女子大学)
・学校法人国士館
・同志社大学

です。

多くないですか?
6つもあるんですよ?

もっとすごいのが、大学に限らず
教育関係や社会活動で携わったものは

600以上あるってことです。

その中で、現在有名になっている
これだけの大学に携わっていたということは、
渋沢栄一の社会貢献への思いの強さが分かりますね。

それでは、渋沢栄一が携わった
大学を1つずつ見ていきましょう!

商法講習所(現一橋大学)

【引用元:一橋大学公式HP

商法講習所は、現在の一橋大学です。

1875年に森有礼(もりありのり)
という人物が設立しました。

森有礼の商法講習所設立に
協力したのが、渋沢栄一です。

森有礼のことを少しお話すると、
薩摩藩士で、初代内閣総理大臣だった
伊藤博文内閣の、初代文部大臣でした。

森有礼って、
「もりありのり」って読めました?

私は最初「もりゆうれい」
って読んでました(笑)

でも、「ゆうれい」でも
かっこいい名前ですよね。

もちろん、
「ありのり」もかっこいいですけど。

森有礼が商法講習所を私塾として設立し、

商法講習所

東京商業学校

高等商業学校

東京高等商業学校

東京商科大学

東京産業大学

一橋大学

となりました。

一橋大学になったのは1949年です。

商法講習所が1875年に設立されているので、
一橋大学の名になるまで74年経っています。

一橋大学の四季が楽しめる動画がありますので、ぜひご覧下さい。

しかも、最初は大学ではなく塾や高等学校でした。

当時、簿記や英会話などを教えていたと、
現在残っている資料で推測されています。

一橋大学の改称の歴史を辿ると、
昔は商業学校だったので、
やっぱり簿記は教えていますよね。

 

私は商業高校出身なのですが、
やはり簿記は必須科目。

他には、電卓や経済、原価(工業簿記)、
会計などいろいろありました。

私は歴史が好きですが、簿記も好きでした。
好きだし得意だったしで、
簿記の授業はいつも楽しかったです。

特に好きだったのが「貸借対照表」と
「損益計算書」の作成でした。

簡単にいうと、
簿記のまとめの計算表みたいなものです。

借方と貸方(表の左右にある枠)
それぞれの合計金額がぴったり揃ったらOK
(ぴったり揃っていても、
中には間違えていることもありますが)

 

なので、一発でぴったり揃ったら堪らないです。

そして、英語はとてつもなく苦手です。

人生で一度だけ海外旅行に
行ったことがあるのですが、

そのとき現地の人の流暢な英語が
まったく聞き取れず、私なりに
知っている英単語と身振り手振りで
なんとか解釈しようとしました。

しかし、現地の人は

「こいつダメだ。
 まったく分かっちゃいねぇ」と思ったようで

「Are you speak English?(英語話せんの?)」
と聞かれてしまいました。

これは流石に理解できました。

曖昧に笑って応えると、
現地の人に「まぁいいや」という態度を
とられ若干呆れられるという。

だって、何言ってるか
分からなかったんだもん(泣)

あとあとになって、
何を言いたかったのか理解できました。

大倉商業学校(現東京経済大学)

【引用元:東京経済大学公式HP

大倉商業学校は、
1900年に大倉喜八郎によって創立されました。

この商業学校の設立委員に、
渋沢栄一も加わったのです。

大倉商業学校

大倉高等商業学校

大倉経済専門学校

東京経済大学

大倉喜八郎はなぜ学校を
設立したのかといいますと、

自分の還暦と銀婚祝いの事業として
設立したいと思ったからです。

銀婚祝いは、結婚25年目のことをいいます。

「還暦祝いで事業をやりたい!」
というのはまだ分かりますが、

「銀婚祝いで事業をやりたい!」
というのは、むむむっ?

奥さんと事業を営むならまだしも、
奥さん関係なく学校事業始めてるからなぁ。

銀婚祝い関係あるかな?
とか思ってしまいます。

銀婚祝いを名目にするなら、
奥さんとどっか旅行するなり、
2人で何か始めるなりすればよかったのに(笑)

そんなことを私が思っても、

当時の大倉喜八郎たちは
「還暦銀婚園遊祝賀会」を開いたわけで。

渋沢栄一ら創立に関わった人物の連名で
「大倉氏商業学校創立の主意」が発表されました。

内容は、大倉喜八郎のことと
学校のことを述べています。

「みんなで学校建てようぜ!」
って考えはすごいですよね。

学校建てたいと思って、
渋沢栄一の他にも何人もの人が
協力するのですから、

大倉喜八郎の人望や熱意が伝わってきます。

大倉喜八郎が還暦と銀婚祝いに
事業をやりたいと思わなければ、

現在の東京経済大学はないのですから、
還暦と銀婚祝ってくれてありがとう!

という思いです。

二松學舎(現二松學舎大学)

【引用元:二松學舎大学公式HP

今回、渋沢栄一は初っ端から登場しません。

あの、渋沢栄一が!最初から名前を
登場させないのです!

じゃあ渋沢栄一何やったんだよ?
と気になりますよね?

渋沢栄一は、二松學舎大学の
第三代舎長を務めたのです!

舎長というのは、理事長のことです。

創立に携わってはいませんが、
学校の取締役をやっていました。

漢字塾二松學舎

二松學舎高等学校

二松學舎大学

東京文科大学

二松學舎大学

二松學舎大学は、
三島中洲が開いた漢字塾から始まりました。

のちに、「不変の節操」
「賢貞(けんてい)」を象徴する
二本の松が庭にあったことと、

中国の文人によると「学び舎」の
意味があるため、末永く学び舎として
あり続けられるように

「二松」という名が付けられました。

末永いですね~。

1877年に最初の漢字塾が始まっているので、
現在の二松學舎大学まで考えると

142年経っています!!

びっくりですよ。
約1世紀半も続いているじゃないですか!

しかも、命名がいい。

節操は正しいことを信じる、
賢貞は賢く正しい。

込められた意味が学校らしいです。

命名といえば、私は昔、
動物を大量に飼っていたのですが、

命名はいつもその場のノリでしたね。

ハムスターは
「トラハム」「もも」「そら」とか、

ゲームのピクミンにはまっていたときには
「ピクミン」って名付けたり。

トラハムも、
「とっとこハム太郎」の影響ですけどね(笑)

小さいころはぬいぐるみにも
名付けていたのですが、

一番のお気に入りだったうさぎの
ぬいぐるみは「ウゥピィ」という名前です。

なんとも、字に起こすと違和感しかないですね。

「ウゥ」の「ゥ」って
なんだよって思ってしまいます。

友達には「ウゥピィだよ」

「ウゥ(←小さい『ゥ』強調)だよ!」と
よく言っていたものです。

ウゥピィはいまも健在で、
私の部屋に居座っています。

日本女子大学校(現日本女子大学)

【引用元:学校法人日本女子大学公式HP

渋沢栄一が生きていた時代は、
教育は女性にとって有害無益という考えでした。

そんな中、渋沢栄一は女子教育にも
力を入れていこうとしていた人物の1人です。

日本女子大学校は、明治時代に初めて
できた女子のための教育機関です。

この創立者は、成瀬仁蔵という人物で、
著書である「女子教育」で、
女性の教育の必要性を訴えました。

この成瀬仁蔵に協力した
人物の1人が、渋沢栄一です。

渋沢栄一は他にも、
東京女学館の創立にも関わるなど、

教育が女性にも必要である
ということを訴えてくれました。

日本女子大学校

日本女子大学

私は女ですが、現代の私が
教育を受けられるのも渋沢栄一や
成瀬仁蔵のおかげですね。

当時、世間の風潮が
「女性に教育は不要」というものだったから、

「女性に教育が必要」だと訴えていくのは
大変なことだったと推測できます。

世間の冷たい目にさらされることも
あったと思いますが、

それでも訴え続けてくれて、
支援者も増えて、無事に女性にも
教育が必要であると
認められたことは喜ばしいことです。

当時の渋沢栄一や成瀬仁蔵たちも、
歓喜したことでしょう。

女性の教育機関に
携わった人たちだけでなく、
当時の女性たちも嬉しかったでしょうね。

いままで「お前に教育は不要だ!」
「家事でもやってろ!」と言われていたのが、

勉強していい、学校に行ってもいいよ!
となるだなんて。

知識欲は誰でもあります。
知らないことを知りたいと思うのは、
当然のことだと思います。

それを、世間の風潮が許さないから
望めないだなんて、
ひどい時代でしたよね。

当時、理解ある男性陣がいて
よかったですよ、本当。

学校法人国士館

【引用元:国士館大学公式HP

学校法人国士館は、柴田徳次郎が
渋沢栄一らとともに設立しました。

当時は私塾国士舘という名でした。

私塾国士舘

財団法人国士館

至徳学園

学校法人至徳学園

学校法人国士館

渋沢栄一が関わってきた
たくさんの大学を見てきて思いましたが、
始めは私塾が多いですよね。

私塾と聞くと私が浮かぶのは、幕末に
吉田松陰が開いていた松下村塾です。

 

松下村塾は多くの攘夷志士
(幕府倒したい人たち)を輩出し、

その後吉田松陰は処刑されましたが、
明治以降になると私塾は
学校に変化していったんですね。

時代の流れを感じます。

日本人の教育に力を入れ、
世界との遅れを取り戻そう
としていたのでしょう。

私塾から学校に変化し、
規模も大きくなっていったので、

教育を求めていた
日本人も多かったのですね。

 

学校といえば、中学生のときに
楽しかったのが、掃除の時間でした。

 

私の中学校は、
掃除は班ごとに教室や廊下、
トイレなど割り振られていて、
1週間ごとに交替でした。

私の楽しかった思い出として
残っているのが、トイレ掃除です。

ただのトイレ掃除じゃありません。

 

私の中学校は、
北と南に校舎がそれぞれあって、
片方は学習する教室がありましたが、

もう片方は必要な授業が
ある場合でしか行くことがない校舎でした。

その、いつもは行くことがない校舎の
トイレ掃除のことです。

いつもは行くことがないということは、
先生も普段は来ない。

人目にもつきづらい。

 

と、いうことは・・・。

はい、掃除中ふざけまくっていました。

班の構成は男女同数で、
掃除をしながら男子とモップで
戦いをしていましたね。

 

何かのために戦うでもなく、
ただ単に、モップとモップをぶつけ合う。

他のメンバーは声援をくれたり、
もしくは別の武器(ブラシ)を持って応戦してくれたり。

大切なことなので言っておきますと、
掃除はしていました。

掃除をしている最中、もしくは、
掃除を終わらせてからふざけていました。

あの時間は楽しかったな~。

 

いまでも、当時同じ班だった友達と会うと
「掃除ネタ」で盛り上がります。

こんな良い思い出ができたのも
渋沢栄一たちが、教育ができる環境を
整えてくれたからこそです。

本当にありがたいです!

同志社大学

【引用元:公益財団法人渋沢栄一記念財団

同志社大学は、
新島襄(にいじまじょう)が
同志社英学校として設立したのが始まりです。

同志社英学校

同志社学院

同志社予備学校
同志社普通学校
同志社神学校

同志社大学

渋沢栄一は、よき仕事仲間である
井上薫に乞われ、同志社大学への
寄付金の取りまとめを行なっていました。

ちなみに、渋沢栄一自身が出した
寄付金は、6千円。

 

「たかが6千円か」と
思わないでください!

当時はとても高額なんですよ!

 

同志社英学校が設立されたのが1875年。
当時の給与所得者の年収は160円でした。

・・・えぇ!?

渋沢栄一、
約37年分の年収額を寄付してる!

すごい。

やっぱたくさんの会社設立したり、
たくさんの学校教育事業に
携わったりしていたから、

お金はあったのでしょう。

 

それにしても、
当時の給与所得者の年収が
160円というのにも驚きです。

お金の単位で「銭」とか
使われていた時代ですから、

いまの貨幣感覚で考えると
マヒしちゃいますね。

 

マヒといえば、私、
一回食い逃げしそうになりました(笑)

私の頭がマヒしていたとしか思えないほど、
華麗に犯罪を起こしそうになったことがあります。

もちろん、意図的ではありません。

友達とご飯を食べた日のことです。
いつも通りお店に入り、
いつも通りご飯を注文し、
いつも通り席を立って店を出ようとしました。

ご飯食べ終わる→席を立つ

ここで、お会計をする、が入るはずでしたが、
私は店の出口にずんずん進む。

レジの前をスルーして、出口手前で、
「あれ、友達ついてきてないな。
 どうしたんだろ?」と思って振り返ると、

レジでお財布を手にしながら
呆然と私を見つめる友達の姿が。

私「どうしたの?」

友達「え、お会計は?」

私「・・・はっ!!」

そこで、やっと
会計をしていないことに気付く私。

急いでレジ前に戻ると、
苦笑いを浮かべた店員さんがいて、
申し訳なくなりました。

無事、会計を済まして
店を出ると、友達が

「びっくりしたよ。
 お金払わずに出て行こうとするから」と
本当にびっくりした様子で話す。

いや、あれは私もびっくりした。

なんの疑問も違和感も感じることなく
店出ようとしちゃった。

友達がいてくれて助かりました。

もし私1人だったら、店出たところで
後ろから店員さんに肩を掴まれて、
してやったりの黒い笑顔を
浮かべられるところでした。

人間、ときどきおかしな行動を
するものです。気を付けなければ。

まとめ

渋沢栄一が関わった大学(現在名)

・一橋大学
・東京経済大学
・二松學舎大学
・日本女子大学
・学校法人国士館
・同志社大学

渋沢栄一が大学の創立に
関わってくれたおかげで、

これらの大学はいま
存在していられるんですね。

日本人の教育に力を入れてくれて、
女性の教育の場も設けてくれて、

いまの日本の教育制度があるのは
渋沢栄一の功績があるからです。

渋沢栄一が築いてくれた
現代の「教育」を、

私たちは大切にして
いかなければなりません。

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