こんにちは、ロジャーです。
今回は、1万円の新紙幣のデザインに
採用された渋沢栄一に関する記事です。
新デザインが発表されたとき、
俺は渋沢栄一という人物を全く知りませんでした。
でも今で言う、福沢諭吉ポジションだろ??
知っておかなきゃ
恥ずかしくね???
ってことで、その渋沢栄一について、
歴史好きの読者さんが熱く語ってくれたので
シェアしておきます。
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渋沢栄一という人物をご存知ですか?
渋沢栄一は、
新1万円札紙幣の肖像画に選ばれた人であり、
「日本資本主義の父」と呼ばれ
多くの経営者から崇拝されている人物です。
ではなぜ、そう呼ばれているのか?
この記事では、無類の歴史好きである私が、
渋沢栄一がそう呼ばれている理由として、
渋沢栄一が関わった有名な会社をご紹介したいと思います。
どれも聞いたことある会社ばかりだと思うので、
きっとびっくりしますよ!
そもそも渋沢栄一って?

渋沢栄一は、1840年
武蔵国榛沢郡血洗島(現埼玉県深谷市)で生まれました。
ときは幕末。
渋沢栄一は尊王攘夷思想に目覚めましたが、
攘夷活動に行き詰まると知人の推挙により、
一橋慶喜(のちの徳川慶喜)に使えることになりました。
幕臣としてフランスに渡航し、
そこで先進的な産業や軍事を目の当たりにし、
渋沢栄一は感銘を受けます。
1867年大政奉還が行なわれ、
渋沢栄一はフランスから帰国すると、
静岡県に日本初の株式会社である商法会社を設立します。
一度、大蔵省に入省しますが、
在籍は4年間だけで、1873年大蔵省を去りました。
その後、多
種多様な会社の設立に関わり、
その数約500以上。
現在も残っていたり、
受け継がれたりしている会社が多数あります。
攘夷志士から幕臣になるって、
その時点ですごい経歴の人ですよね。
怪盗から警察になるみたいな。
しかもそこから経営者になるって、
渋沢栄一の手腕はすさまじいですね。
そんな渋沢栄一が関わった会社を
ピックアップしてご紹介していきますが、
その前に1つ言わせてください。
渋沢栄一が生まれた場所、「血洗島」って・・・。
どういう由来があるんですかね?
すごく気になる。「血流川」ってのは
聞いたことありますし、由来も知ってますが、「血洗島」って・・・。
と、とりあえずそれは置いといて、会社を見ていきましょう!
業種① 銀行業

1869年 商法会所
日本初の株式会社であり、
静岡県静岡市葵区紺屋町に設立されました。
渋沢栄一は、静岡に1年に満たない期間
いたことがあるのですが、その間に設立し、
しかも事業を行うまでに成長させていたのです。
渋沢栄一は商法会所の頭取でした。
会社の業務内容としては銀行業務と商社業務で、
資金の貸付(商品を抵当としたり、農業奨励用として)、
当座・定期預金の扱い、地元で販売するために
米穀・肥料を東京や大阪で買い入れるなどの業務を行なっていました。
その後、常平倉という名前に改称され、
現在は教覚寺というお寺になっています。
私は静岡在住ですが、
渋沢栄一が静岡にいたなんて知らなかったです。
葵区紺屋町も行くんですけど。
教覚寺は、なんとなく見覚えがあるような。
徳川慶喜が住んでいた屋敷は知ってるんですけどね。
大政奉還後、写真家になったね。
商法会所の事業内容知ったとき、
真っ先に「農協」が浮かびました。
金融機関でもあり、肥料や農薬、農産物も売買している。
農業奨励用の貸付とかも、農協っぽいですよね。
それにしても、1年未満で設立し、
ここまで事業を進めるって、すごいですね。
1873年 第一国立銀行(現みずほ銀行)
日本最古の銀行であり、
その頭取を渋沢栄一が務めました。
第一国立銀行ができる経緯は、
「三井組」と「小野組」という銀行のような
業務を行なっていた組織がありました。
その2つの組織が大蔵省により合併させられ、
「三井小野組合銀行」となります。
三井小野組合銀行を国が許可し、
第一国立銀行となりました。
第一国立銀行は合併を繰り返し、
現在のみずほ銀行になりました。
渋沢栄一は日本初の株式会社を作ったり、
日本最古の銀行を作ったり、資本主義の先駆者ですね。
約150年も、
日本最古の銀行が現在まで受け継がれ、
事業を行なえているのは、
やはり渋沢栄一の作った土台が頑丈だったからでしょう。
しかし、だからこそ数年前にみずほ銀行が
犯した失態は悔やまれますね。
渋沢栄一も「何やってんだ」と憤慨し、
涙したことでしょう。
私は元銀行員なので、
銀行業務の大変さを分かっているつもりです。
やってはいけないことも重々承知しているので、
銀行の不祥事を聞くと
「なんでそんなことやるかな」と頭を抱えてしまいます。
信用は一度失ったら立て直すのは難しいですからね。
いままでその信用を築き上げてきた人に
きちんと顔向けできるように、真っ当な仕事をしたいものです。
1878年 七十七国立銀行
東北地方を中心とする大手地方銀行であり、
国立銀行として77番目に設立された銀行です。
元仙台藩士の氏家厚時が設立を決意し、
東北の振興に関心があった渋沢栄一が、設立を支援しました。
設立の際に、資本を出資したり、
第一国立銀行から人材を送ったりして、
氏家をサポートします。
第2、第4頭取は、渋沢栄一の推薦した人物です。
この七十七国立銀行、
ちょっと珍しい名前ですよね!
私は銀行で働いていたので、似たような
ちょっと変わった名前の銀行を目の当たりにしたことがあります!
窓口担当だった私は、処理するためにお客様から
記入された振込伝票を受け取ったのですが、
そこに記載された振込先が「十六銀行」だったときは衝撃を覚えました。
え?何十六銀行って?こんな銀行あるの!?
私の地元に、名前に数字が入った銀行がなかったので
「色々な銀行の名前があるんだなー」と勉強になりました。
実際、長野県だったと思うのですが、
本物の「十六銀行」を目の当たりにしたときには興奮しました。
七十七銀行も、ぜひ東北に行ったときには見てみたいものです。
業種②製紙業

1873年 抄紙会社(王子製紙と日本製紙の前身)
当時、洋紙は輸入に頼っていたため、
洋紙の国産化を目的とした抄紙会社を
渋沢栄一が中心となって設立しました。
経営が危なくなったときには、
渋沢栄一が頭取であった第一国立銀行から
融資を行い、難を乗り切りました。
1876年製紙会社、
1893年には王子製紙株式会社と改称しています。
渋沢栄一の着眼点がすごいです。
日本内部の経済発展やインフラの整備だけでなく、
外国との貿易物のことまで頭を働かせるなんて。
輸入しなくて済むなら、
その分お金は浮きますからね。
それを実行し、現在まで
継続させるなんて渋沢栄一の手腕が分かりますね。
業種③取引所
1878年 東京株式取引所(現東京証券取引所)
日本初の公的な証券取引機関であり、
世界三大市場の1つです。
株式会社制度の導入により、
公債の売買が盛んに行なわれるようになりました。
そのため、取引機関が必要になり、
東京株式取引所が設立されました。
その設立の発起人の一人が、渋沢栄一です。
渋沢栄一、どこにでも現れますね。
日本初の事業に関わりすぎです。
もちろん、感心しています。
業種④保険業

1879年 東京海上保険会社(現東京海上日動火災保険)
日本初の保険会社であり、
渋沢栄一は創業時の株主の1人です。
他にも、三菱グループの岩崎弥太郎など
約200名が名を連ねました。
渋沢栄一は経営陣の中で、相談役も担っていました。
東京海上保険会社は1914年に
日本初の自動車保険も誕生させています。
またあなたですか渋沢栄一さん!!
もうね、「日本初」って書きすぎて
本当に「日本初」なのか、
どこまでが「日本初」なのか、
そもそも「日本初」ってなんなのか、
よく分からなくなってきますよ(笑)
でも、自動車保険の誕生は嬉しいですね。
当時は1000台ほどしか自動車は走っていなかったそうですが、
いまの時代は自動車の需要が大きいですからね。
そうなると、自動車保険も必須になってきます。
銀行員でもありましたが、
保険業にも携わっていた私から言っておきますと、
自動車保険は絶対に入っておいたほうがいいです。
保険料が勿体ないなんて思わないでください。
何かあってからでは、遅いですよ?
業種⑤陸運業

1881年 日本鉄道(現JR)
日本初の私鉄事業者であり、
これの設立に渋沢栄一は携わっていました。
日本鉄道は、
関東から東北にかけて鉄道を作りましたが、
のちに、現在の日本にある多くの鉄道に関わっていきます。
当時は自動車なんて主流じゃなかった時代、
移動手段は徒歩か電車です。
渋沢栄一は、きっと鉄道を作ることで
経済の発展を図ったのではないでしょうか。
私鉄は国有化されてしまいましたが、
渋沢栄一らが関わった鉄道事業は、
現在のJR社に引き継がれています。
鉄道ファンは歓喜ですね。
渋沢栄一がいたから日本全国に
鉄道が広がったようなものです。
「日本資本主義の父」とも崇拝されていますが、
鉄道ファンからは「鉄道の父」と崇められてたりして。
業種⑥海運業

1882年 共同運輸会社(日本郵船の前身)
当時、郵便汽船三菱会社という
三菱の海運事業が勢力を広げており、
外国の船会社にも対抗していました。
しかし、三菱は日本の中小船会社も圧倒してしまい、
独占的に利益を上げるようになりました。
それを快く思わなかった渋沢栄一や井上馨は、
三菱に対抗するため共同運輸会社を設立します。
その後は三菱と共同が対抗しあい、
運賃の値下げ合戦や速度の競争のようなこともやり始め、
接触事故も発生しそうになったこともありました。
そんな小競り合いも終わりを迎えます。
三菱の社長である岩崎弥太郎が死去したことにより、
政府の仲介によって三菱と共同は合併し、日本郵船が誕生しました。
今回渋沢栄一のことをご紹介するにあたって、
初めて穏便に始まらなかった会社の設立がきましたね。
経営は相手企業との競争だとは思いますし、
相手よりも優位に立たないと利益を出せないのは分かります。
しかし、それで目先のことしか見えなくなり、
周りに迷惑をかけていたらダメですよね。
政府の仲介があったからよかったものの、
もしそれがなかったら三菱と共同は、
どうなっていたのでしょうか?
業種⑦綿業

1882年 大阪紡績(現東洋紡)
渋沢栄一は、
綿糸の輸入額が巨額であることに気付き、
国内で紡績会社を作ることを計画します。
紡績技術者である山辺丈夫に紡績事業を促し、
渋沢栄一は自分の資産から資金援助を行いました。
1914年に大阪紡績は三重紡績と合併し、
東洋紡が設立されました。
東洋紡という名は渋沢栄一が名付け親で、
「東洋一の紡績会社に」という思いが込められています。
これから東洋紡を見るたびに、
「あぁ、渋沢栄一が名付けたんだな」って思ってしまいますね。
私は名付けなんて、
いままで飼っていたペットと
持っているぬいぐるみにしかしたことないですよ。
自分が名付けた会社が大きくなっていったら、
きっと誇らしいでしょうね。
業種⑧ガス業

1885年 東京瓦斯会社(現東京ガス)
渋沢栄一は東京会議所という組織の一員であり、
1873年東京会議所はガス事業に乗り出していきます。
渋沢栄一は東京瓦斯会社の創立委員長であり、
のちに取締役会長にもなりました。
ちなみに、日本初のガス会社は
1872年に横浜で創立されました。
「瓦斯」は「ガス」と読みます。
恥ずかしながら、私は
「かわらし」って読んでいました。
だって「ガス」って読めない・・・。
読めないのが私だけだったら、
無知がばれちゃいますね。
そして、ガス会社は日本初じゃなかったです。
なんか、ここまで「日本初」ばかりだったから、
コンプリートしてほしかったですね。
業種⑨麦酒醸造業

1885年 ジャパン・ブルワリー(現キリンビール)
日本初のビール醸造所は、
1869年にドイツ人のヴィーガントによって、
横浜山手に「ジャパン・ブルワリー」
という名で創設されました。
1870年には、
アメリカ人のコープランドによって天沼の地に
「スプリング・バレー・ブルワリー」という名で創設されました。
両醸造所は1876年に合併し、
1885年、経営難に陥っているところを
渋沢栄一が援助します。
渋沢栄一の他に、
岩崎弥太郎、後藤象二郎、グラバーらが共同出資をし、
「ジャパン・ブルワリー」という新会社を立ち上げました。
1888年には「キリンビール」が発売されています。
まず、私からしたら共同出資者が
結構オールスター状態です。
三菱の岩崎弥太郎、土佐藩出身の後藤象二郎、
長崎のグラバー邸で有名で、
坂本龍馬と関係もあるグラバー・・・
四人でいるところ見てみたいです!
どんな話をするのか、興味があります!
きっと、高度な経営の話をするんだろうな。
驚いたのが、
そんな昔からキリンビールが誕生していたことです。
きっと、初めてビールを飲んだ人は
あの味の苦味に顔を顰めたでしょうね。
私もビールは苦手でした。
数か月前までは。
元々地ビールは好きだったのですが、
飲み屋で出されたり、お店で売っていたりする
いわゆる普通のビールは避けていました。
味が苦手だったのと、
すぐお腹に溜まって料理や
他のお酒を楽しめなくなるからです。
しかし、なぜか最近は
普通のビールも飲めるようになり、
乾杯はビールでも抵抗がなくなってきました。
まぁ、そうは言いましても
そこまでビール飲まないんですけど。
ただ、こうやってビールの記事を書いていると、
ビール飲みたくなってきますね。・・・
って、いかんいかん!これは渋沢栄一の会社の記事や!
業種⑩ホテル業

1888年 有限責任東京ホテル会社(現帝国ホテル)
当時の外務大臣であった井上馨が
渋沢栄一らを説き、外国人向けの、
隣接する鹿鳴館と密接な関係を持った
ホテルとして設立されました。
1890年に開業され、渋沢は
初代会長として就任し、
1909年に会長職を辞任するまで、
日本と世界を結び付けていました。
帝国ホテルの所在地は、
東京、大阪、上高地の3か所です。
また、帝国ホテルは日本で初めて
バイキング形式の食事を取り入れたところでもあります。
私は、帝国ホテルって泊まったことないんですよ。
行ったこともないんです。
だから、どんなホテルなんだろうと検索してみたら・・・
もうね、出てきた宿泊料金を見て
目玉が飛び出るかと思いました。
・・・高い。
私には一生縁のないホテルです。
でもそれだけ、格式高く日本で誇られてきた
ホテルなんだなーっと思います。
会社以外は何がある?

渋沢栄一は会社以外にも、
約600もの社会公共事業に携わりました。
- 東京経済大学
- 一橋大学
- 富岡製糸場
- 日本赤十字社
などなどです。
書き出すとキリがないので、このへんで。
渋沢栄一の経営理念

渋沢栄一がこれだけの会社を
手掛けてこられた理由は、
経営理念に答えがあります。
渋沢栄一の経営理念
「富をなす根源は
何かと言えば、仁義道徳。
正しい道理の富でなければ、
その富は完全に永続することができぬ」
私利ではなく、
公共の利益を求めた渋沢栄一。
自分の資産を投じてまで、
日本の発展に力を注いできました。
渋沢栄一が築き上げてきた富を、
現代に生きる私たちが、
永久に存続できるよう努力していかなければなりません。
こちらの動画では、
渋沢栄一が仁義道徳について演説しています。
渋沢栄一の肉声も聞けますので、ぜひご覧ください。
渋沢栄一の関わった会社のまとめ

渋沢栄一は
約500もの会社の設立に関わってきました。
その主な会社は
- みずほ銀行、七十七国立銀行
- 王子製紙
- 東京証券取引所
- 東京海上日動火災保険
- JR
- 日本郵船
- 東洋紡
- 東京ガス
- キリンビール
- 帝国ホテル
会社以外にも
約600もの社会公共事業に関わり、
その渋沢栄一の経営理念は
仁義道徳が大事
と説いています。
渋沢栄一は、とても短いスパンで
様々な会社の設立に携わっています。
同じ年に同時に携わっているものもあり、
渋沢栄一の経営力の高さと
人望の高さを知ることができます。
経営難の会社は自分の財を出資して助け、
日本をよりよくしていこうと尽力した渋沢栄一。
目先の利益でなくもっと先の、
未来の利益を見据える魂を、見習いたいものです。
そして、私が最後に言いたいのは・・・
帝国ホテル、泊まってみたいなー。
他業種にわたって活躍した渋沢栄一は
まさにビジネスの重鎮ですね。